我が国の「格差」とは何か
曽野綾子氏の近著に『貧困の僻地』(新潮社)があります。
新聞広告に書かれたコピーはこう:
> アフリカのある地域では、雨期になると道が消える。
> しかも病院まで二百キロある。だから金がない者は死ぬ。
(中略)
> アジアのある村では「地雷除去」が最大の産業----
> これが「貧困」であり「僻地」である。
(改行、太字、ママ)
これ、もうこの広告コピー読んだだけでお腹いっぱいです。おっしゃりたいことは全部分かったと思います。最後の太字部分が全てですよね?要するに。
「日本が格差社会だぁ〜!?
「寝言は寝ながら言いなさい!?wwwwwwwww」
てことでしょう。
しかしこれ、違うんですよ。
全然、違う!
先ほどNHK『特報首都圏』で、「非正規公務員」についての番組を見ました。
同じ勤務時間、同じ責任を負って同じ業務をこなしても、おおよそ下記くらいの年収格差があると報じていました(ある程度、記憶に頼って書きます):
正規職員: 850万円
非正規職員:150万円
私はこれを「格差」と呼ぶのだと考えているのですが、違いますか?
曽野先生の信奉者など保守系の方々が「アカ」とか「在日」「反日」「売国奴」とか呼ぶ連中(=私など(笑)が問題視している我が国の「格差」とは、対アフリカ下流層、対アジアの僻地ではないんです。同じ日本という国で、同じ職場に働き、同じ時間、同じ責任のある業務をこなしても何故だか上記のごとき収入差が出る。これは変じゃあござんせんか!?と問うているのです。
それを「アフリカと比べたら……」((C)奥田碩トヨタ自動車相談役)などといくら力説したからとて、我々「下々の者」たちには何の説得力も持ちません。
少し前の記事で、最近、新刊書のコーナーに、アンチ金融資本主義とかアンチ小泉改革の本などが所狭しと並んでいるということを書きました。
それが今では、徐々に、曽野先生の上記の本だとか、長谷川慶太郎氏『日本は「掃き溜めの鶴」になる』(PHP研究所)だとか、「日本は今のまんまで大丈夫!」、「日本に貧困はない!格差社会もないよ!」というような内容の本が"反撃"に出ています。
私はこれらの本を見ると、へどが出そうになりますね。
#あら!私としたことが、お下品な言葉を使って、ごめんあっさっせ。
そこまでして自民党を応援する裏には、本当に自由主義・資本主義を守りたい!という情熱があるだけなのでしょうか?
#何か他にもあるんじゃないですか?
とか、勘ぐりたくもなってしまうほど、無茶をした新刊が続々出版中なのです。
ともかく、あれですね。
私は安全保障や歴史認識に関してはright wingだと自認しておりますが、それでも我々が闘っていかねばならない相手は、こうした「新潮・文春・産経・PHP言論人」とでも呼ぶべき諸先生、ということになりますかね。